当事者との出会いや〝格闘〟が転機に

フォーカス・オン「教会とLGBTQ(※1)」第1回(5月22日号)では、性的少数者のクリスチャンが社会の中でどのように葛藤し、教会との関わりにおいては自らをどのように見なしてきたかについて、インタビューを通して取り上げた。そこからは、とりわけ同性愛が多くの教会で「罪」や「癒やされるべき病」と位置づけられてきた中で、当事者が罪意識を感じたり、傷ついたりしてきたことが明らかになった。

しかし現在、インタビューさせていただいた方の多くは、自身のセクシュアリティをそう捉えてはいない。むしろ「神様の祝福」「神様が共にいてくださる」など、神との関わりにおいても肯定的な言葉が聞かれた。どのような経験からそう感じるようになったのか、それぞれの出会いや〝格闘〟について話を聞いた。

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理解者と出会い 広がる価値観

「信仰でセクシュアリティを変えられるものなら変わりたい」と、20代の時に初めて教会へ行った涼子さん。最初に行った教会では「同性愛は罪」と教えられたが、現在通っている教会のスタンスは異なるという。

「牧師は、LGBTについては感覚的に『NO』と言うのではなく、神学的に捉えようとした上で『多様性は大事』と考えています。また数年前、LGBTを神学的に捉え直そうとしている別の牧師の方が『約束の虹ミニストリー』(以下「約束の虹」※2)の寺田留架(るか)さんという方を紹介してくださって、それから『約束の虹』にも顔を出すようになりました。私は以前の教会の影響もあって、『聖書は同性愛を罪だと言っている』と長く思ってきたんですが、今の教会や寺田さんに出会ってからだんだん考え方が変わったと思います。それまでセクシュアリティは常にいちばんの悩みでしたが、自分のセクシュアリティを受け入れて、『罪じゃなくて神様の祝福なんだ』と思えるようになってから、悩みではなくなりました。その上で、『同性愛は罪だ』という人の声も『罪ではない』という人の声も、両方をリスペクトしたいと思っています」

「セクシュアルマイノリティの人権が議論されるようになったのはサタンのしわざ」といった極端な聖書解釈に傷つき、以前通っていた教会を去った由希さん。その後、「約束の虹」やある牧師の主宰するウェブコミュニティに参加するうち、以前の教会で受けてきた痛みや縛りから解放されていったという。

「教会の中で『おかしい』と感じてきたことや自分のセクシュアリティについて正直に話しても誰も責めず、むしろ共感して話を聞いてくれる人がいることがすごくうれしかったし、楽になりました。それまでは自分のセクシュアリティがすごく恥ずかしくて、絶対人には言えないと思っていましたから。『約束の虹』でアライ(※3)の方たちとも関わるようになって、やっと自分はこのままで生きていていいと思えるようになりました。それは、言っても批判されないという経験を積み重ねてきたからだと思います。世の中は自分が想像していたほど差別的じゃないというか。主語が『LGBT』と大きい場合、それに対して反発や偏見などがあるのかもしれませんが、主語が『私』で人と人どうしの関わりになると、共感してもらいやすくなるのかもしれないと感じました。これは私の体感ですが」

批判し合わず、互いの声に耳を傾ける場。最近では、それが「まるで教会のよう」と感じるという。

「自分の頭の中だけにセクシュアリティをしまい込んで隠してきた人生だったけど、人と共有することですごく強くなるんだなと思うし、神様も私にそれを望んでくださっているように感じています」

(※1LGBTQ…レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィアやクエスチョニングの頭文字をとった言葉で、性的少数者を表す総称のひとつ
(※2)「約束の虹ミニストリー」…自らも性的少数者である寺田留架さんが立ち上げた、セクシュアルマイノリティと祈りを共にするキリスト教をベースにした活動・コミュニティ。当事者だけでなく「アライ」の参加も多い
(※3)「アライ」…セクシュアルマイノリティを理解・支援する人のこと

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クリスチャン新聞web版掲載記事)